日々の暮らし

2021ゴッホ展雑感

〜絵と私〜

私は絵を描くのが苦手です。中学生の頃、美術の授業で石膏胸像を水彩で描く課題があり、そのド下手ぶりが今でも忘れられません(笑)どう手を加えても、コンクリートのような平面(しかも滲んだグレーのひび割れだらけ)が果てしなく広がっていくばかりで、全然立体にならない。あれは酷かった…

それがトラウマになったのか、その後本格的に絵を描く機会もなかったので、専門的な事は全くわかりません。でも鑑賞するのは好きです。

わたし流鑑賞法は、あえて予備知識を持たないこと。なるべく先入観なしで、その場に行って絵の前に立ち、なにか流れ込んでくるのを待つというスタイル。自分が「ただ絵の前に在る」為には、見に行くタイミングも大事で、無理やりではなく、本当に見たいと思った時がその時!まぁ要は自由に楽しもうということです。

〜マウリッツハイス美術館とクレラー=ミュラー美術館〜

2007年に公演でオランダに行った際、足をのばしてマウリッツハイス美術館とクレラー=ミュラー美術館を訪れました。前者はフェルメール、後者はゴッホ作品お目当てで。
建物の外観は全く異なる両者ですが、共通していたのは展示品と来場者の距離の近さ!「えーっ?こんな無防備で良いの!?」とこちらが心配になるくらいの大らかさで、これには驚きました。人もまばらで絵の前にどれだけ立ち止まっていても咎められることもありません。

2016年、日本で開催された“ゴッホとゴーギャン展”を見に行ったおりは、このオランダ体験とのギャップに参りました。さすが日本で人気の高いゴッホ。入場前は長蛇の列、会場内も人の渦、絵の前は幾重にも人だかり。まるで人の頭を見に行ったようでした。これにこりて、しばらくゴッホからは遠ざかっておりました。

〜2021“ゴッホ展”東京都美術館〜

久しぶりの美術館。
コロナ禍で人数制限がかかっていたので、比較的ゆったり鑑賞することができました。

今回は素描が多く出展されていました。シンプルなだけに、ザラザラと剥き出しの感性が噴出して真正面から迫ってくるようでした。素描と油彩作品を関連づけた展示もあり(絵を描かない私でも)制作の過程を少し知れたような気がして興味深かったです。

〜黄と青〜

私の中で変わったこと

ひまわり、種まく人、黄色い家…
黄色。有名な作品群で印象に残る色だからでしょうか。色の持つパワーでしょうか。
どうしてもそこに目がいき、これまでは黄色に着目することが多かったのですが、今回は何かが違いました。パッと目に飛び込んでくるのは青。黄より青でした。
もともとブルー系は個人的に好きな色ですが、なぜかゴッホの青を意識したことはありませんでした。心境の変化?この色を欲していた?

一番わからないのが自分のことですね。

〜《夜のプロヴァンスの田舎道》と《悲しむ老人》〜

私の中で変わらないこと

話は戻りますが、クレラー=ミュラー美術館で驚いたもう一つは、写真撮影okだったこと。今でこそ国内でも珍しくなくなりましたが、当時はまだ一般的ではなかったはず。
ですから若干戸惑いながら、私も含めてごく少数の観光客が遠慮がちにカメラを構えていました(あ、まだスマホではありません)

その時に撮影していた2枚《夜のプロヴァンスの田舎道》と《悲しむ老人》に今回再会しました。やはり変らず心惹かれる作品でした。
実は撮影していたことはコロッと忘れていたのですが、blogのためにアルバムを見返していたら出てきました。オランダでは《夜の〜》は他の作品に紛れさりげなく飾られていて、当然人だかりもしていませんでしたが、今回は目玉作品!図録の表紙を飾っています。取り上げられ方が全然違いますね。

他者の評価はさておき、十数年経っても、私のお気に入りでした。

〜作品を守り続ける。へレーネとテオ〜

へレーネ(国立クレラー=ミュラー美術館初代館長)、ゴッホの弟テオ(ファン・ゴッホ美術館)の存在がなければ、現代の私達が鑑賞することは叶わなかったゴッホ作品。描いた本人と同じくらい、もしくはそれ以上の熱意を持って作品を見出し、世に知らしめ、大事に保管してきたのです。その使命感はどれほどのものか。
私の知人が夭折の画家だった亡夫の作品を大切に保管し、後世に残すため奔走していたのを間近でみていたので、規模は違えど同じような思いがそこにあったのではないかと想像します。

兄を公私ともに支えた弟テオに男の子が生まれました。フィンセントと名付けられた甥の誕生祝いに、ゴッホは一枚の絵を送りました。

《花咲くアーモンドの木の枝》私の大好きな作品です。