コンサート

ある日の演奏覚書その4〜ピアノの話、本番前に味わったモヤモヤの正体

演奏形態 ピアノ独奏、歌曲及びフルート伴奏、弾き歌い
使用楽器 Bösendorfer214
演奏曲  Debussy ,Gaubert ,Falla ,Chika Uedaなど

好みのピアノ

ベヒシュタイン、エラール、プレイエル、ベーゼンドルファー、スタインウェイ、ファツィオリ、ヤマハ、カワイ、etc…これら全て様々な国のピアノメーカーの名前。
私が最初に買ってもらったピアノはアトラスという日本メーカーのものだったが、すでに国内では製造されていない。淘汰されたもの、ブランドの特色を受け継ぎながら(多少個性を抑えることも含む)今日に至っているもの、、ピアノ製造にも歴史ありだ。

日本画の中村大三郎「ピアノ」(1926年)ではペトロフ(チェコのピアノ)を
振袖、草履姿の女性がペダルを踏み演奏している姿が描かれている。
精緻で華やかな作品。
この時代に輸入品の、しかもグランドピアノ!!
モデルは奥様だそうです。

現在私たちが目にするピアノは楽器としてほぼ完成形と言えるが、登場して間もない300年ほど前は、工夫改善の余地が大いにあった。楽器製作者たちは演奏家や作曲家のニーズに応えつつ試行錯誤し内部機構にもさまざまな改良を加えた。

想像するに、この頃は奏者の指が鍵盤に触れる瞬間から音として聴衆(または奏者自身)の耳に届くまで、今よりもっと明確にメーカーによる違いがあっただろう。

ショパン(1810−49)はフランス製のピアノの名を挙げてこういった
「私は気分がすぐれない時はエラールを弾く。気分がよく体力もあり、自分だけの音を出してみたい時はプレイエルを弾く」
彼の作品、前奏曲作品28(全25曲。「雨だれ」が有名)は、ピアノ製作者であり出版も手がけていたプレイエルに献呈されている。

またドビュッシー(1862−1918)はドイツ製のピアノがお気に入りだったらしい
「ピアノ音楽はベヒシュタインのためだけに書かれるべきだ 〜1913年4月」

ショパンやドビュッシー、それぞれに好みのピアノがあったということ。それは今も変わらない。特定のピアノブランドをこよなく愛し、演奏にはそれしか使用しないというピアニストは珍しくない。

調律師さんのありがたみ

理想を言えば、そんな唯一の楽器に巡り会いたいが、ピアノは持ち歩けないし、行った先でどんな状態のピアノ(内心「ぎゃーっ!」)でもそこにある楽器を使用するしかない。
ブランドピアノに期待しすぎて裏切られることも(自分の技量は棚にあげて)多々あるのでより良いコンディションのピアノであればもう十分にありがたい。

度々使わせていただいている今回の会場には、スタインウェイとベーゼンドルファー2台のピアノがあり、いつもはスタインウェイを使用していた。今回もそのつもりでいたが、前日に相当丁寧に調律されたというベーゼンドルファーの仕上がりがとても良かったので、予定を変更しこちらを使用することにした。
全体の演目や、声との馴染みもよく、ゆったりした気持ちで演奏できた。
楽器にはこだわらないと言いつつ、やはりピアノの状態が良くて本来の性能が引き出されていれば心地良い。どのピアノも最終的には調律師の手によって仕上げられたものが演奏者に届けられる。楽器と同じくらい、もしくはそれ以上に重要。いつも感謝♪

漠然としたモヤモヤが?!

さて、もう一つ書き留めておきたいこと。

演奏会によって、ソロだったり伴奏だったり楽器も違ったりするので単純には比べられないが、共演者には自分のいろいろな面を引き出される。そこがまた面白いところ。

そして今回。

順調に進んでいるはずなのに、本番が近づくにつれ味わったことのない「モヤモヤ」が私の中に湧いてきたのだ。

一体これは何だろう?
焦り、おそれ、とも違う、、不穏な感じ?

アレクサンダーテクニーク的考察

初めての感覚。
理由が思い当たらず、かといってそのままにしておくのも落ち着かないので、その正体を探るべく自分の状況を整理してみた。
(アレクサンダーテクニーク教師あるある=逆境での自己分析癖)

①会場について
問題なし。慣れている会場。

②演奏内容について
初めての演目あり。自分の歌、コンディションなど不安要素山盛り。でも大なり小なりほぼ毎回のことなので、対処方法はわかっている。
練習を重ねていくと、いつのまにか「良く見せたい」という思いが強くなり、本当にやりたいことは何かを見失いはじめる。それから引き起こされる不安なので「何をしたいのか」自分の本来の望みを再確認すればok。
ただ、いつもより不安要素が多いので、何かしら「正体を見極めたいモヤモヤ」の引き金になっている可能性はある?

③共演者について
気心知れた友人達。アレクサンダーテクニーク教師。ただし本格的なアンサンブルは初。ATという共通の土台があるおかげで(と私は思っている)企画段階からスムーズに話が進み、音合わせに入ってからも同様。必要な意見交換も十分ありつつ音楽も出来上がっていく過程はとても充実している。

こうなると、原因は見当たらないように思えるが、実は③に落とし穴があった。

手応えを感じる?感じない?

スムーズ、要するに引っ掛かりがないというのは本来なら喜ばしいこと。
実際のところ快適だった。でもここに自分の「モヤモヤ」の原因があると考えた。

ピアノやアレクサンダーテクニークのレッスンで生徒さんが勘違いしやすいポイントがある。

a.スムーズ=抵抗感がない
b.スムーズではない=抵抗感がある

この二つを比べた場合、a.抵抗感がないと物足りなさを感じてしまい、逆に b.抵抗感があると「やった感」「やってる感」を得られるので、必要がないのにそれを求めてしまう場合がある(もう一歩進めるとa.とb.の違いがわかってくるのだが)

例えばピアノ演奏において、力任せに鍵盤を叩けば、すごい反発がある「弾いてる〜っ!!」という実感や満足感はあるだろうが、音としてはその場で鳴っているだけ。豊かな響きからは程遠い音質。表現は限定的になってしまうだろう。歌唱もそう。楽器=身体なだけにさらに自己判断が難しい。

筋トレも、闇雲にガツガツ汗まみれでやれば、達成感は得られるだろうが、本当に効いて欲しい部位は正確に使えていないこともある。結果効率が悪い。

表面的に「やってる感」があるのと、本当に「やっている」の見極めは大事である

で、今回の場合は私自身が、自分と他者の間に引っ掛かりを求めていたのではないか、ということ。他者から跳ね返ってくるものの中に答えを見つけようとしていたのでは?

そう考えてみると、腑に落ちた。
共演者の態度は、その場に応じて適切な反応、ジタバタしない。
大声を出したり笑ったりするけど、全体の印象として“静けさ”がある。

この状況が
抵抗感がない =手応えがない=やってる感の欠如
と私の中で繋がってしまっていたようだ。

それに気づいた時、己の不甲斐なさにがっかりした。共演者に求めるものもお門違いで甚だ失礼。「自分がやるべきことは何だ?自分の面倒を見ろ!」と自らを叱咤激励し、気持ちを切り替えてからは、モヤモヤは霧散し、楽しい本番だった。

積み上げてきた経験も大事だが、自分の状態は変化し続けているのだから、その都度新たな気持ちで向き合うことを忘れないようにしよう。