コンサート

ある日の演奏覚書その2〜ピアノ連弾

演奏覚書

演奏形態:ピアノ連弾(一台四手)
使用楽器:BECHSTEIN /L167
演奏曲:連弾のために書かれた作品(編曲版ではない)
中田喜直,Brahms,Dvorak,Debussy,Ravel,

7年ぶりの連弾リサイタル

前回のKONOMIKIからいつのまにか7年も経っていました。
再演したい曲もありましたし、コロナ禍も少し落ち着いてきたのでそろそろ再開しましょう!と会場を決め、プログラムを決め、そして本番。

動き出すとあっという間の数ヶ月。
7年ぶりの戸惑いと面白みなど、もろもろを思いつくまま書き留めておきます。

〇〇にびっくり!?

経験者の方はご存知だと思いますが、“連弾”は演奏者の距離が本当に近いのです。
慣れないうちはお互いに遠慮があって、二人の間に壁(10センチくらいのエアクッション!?)がしっかり存在していますが、慣れてくればそれはどこかに消えて無くなり、手や肩が触れる(密着する)なんて当然、指を指で踏むなんて日常茶飯事。曲によっては腕を交差させたり、二人羽織のように一人が後ろから覆い被さる必要もありますから遠慮なんてしていられません。

で、そんなことは承知の上、相方とのお付き合いも10年以上。なのに。。。
いざ練習を始めてみたら

「二人の距離の近さ」にビックリ!

「そんなことに驚く自分」にビックリ!

「ええ〜!?」

まいりました。音楽づくりの手前でいきなりコケてしまった感があり「このままでは先に進めない」と内心焦りました。決して相方のせいではありません。私の受け止め方なんですよね。うまく説明できないこの心地悪さ。無視できない抵抗感。

「なんなんだ?いったい?」

もう?謎だらけ??です。私自身のパーソナルスペースは狭くもなく広くもなく、わりと必要に応じて柔軟に変えられる方だと思っていたのに、その私がこんなにも違和感を感じるなんて…。

理由を探るうちにハタと思い当たる節がありました。
これは推測の域を出ませんが、コロナ禍でさかんに実践していた
〜ソーシャルディスタンス(改めフィジカルディスタンス)〜
のせいではないかと。
いつの間にか、かなり強烈に自分の中に浸透していたのだと思いました。
感染への恐怖心を伴って、ある意味日々徹底的に訓練していたわけですからさもありなん。「慣れ」って恐ろしい。

順応力が高いのを悪いと思ったことはありませんでしたが、現在の環境にこのような形で慣れてしまうのは、少々怖さも感じました。

アレクサンダーテクニークの観点から

ここで少し角度を変えて、なぜ私が「ビックリ」にこだわるのかお話しします。
アレクサンダーテクニークを使って演奏しようと心がけている私にとって、けっして無視できない要素が含まれているからです。

今これを読んでくださっているあなた。
突然、耳元で大きな音が鳴ったらどんな反応をなさるでしょう?
ほとんどの人が首や肩をキュッとすくめるのでは?

この反応は人間にとって大事な部分(脳や首周辺など)を守ろうとする正常な反応です。
非常事態だと認識して、首、肩周辺の筋肉が収縮、緊張している状態です。
それは見方を変えると、後頭下筋群など(全身の動きに影響を与えるといわれる部分)の繊細な働きの妨げになり、結果的にパフォーマンスの質を下げてしまいます。

私が「ビックリしている」ということは、パフォーマンスの質を下げる可能性があるということ。

他の人が外から見て全く気づかない程度のごくごく僅かの反応でも、これは起きます。付け加えるならば、ある程度トレーニングを積まなければ本人でさえ気づかない反応が、パフォーマンスに影響を与えるのです。

そこで私は考えました。

<解決のための練習方法>
①連弾で相手が座る位置に(できるだけ等身大に近い)クッションを置く
②演奏中、相手に触れた時に起きる反応を自覚する。
③受け身だけではなく、少し相手側に押したり寄りかかってみたり積極的に働きかけることもやってみる。
④とにかく起こりうる状況をできる限り再現し、自分の反応をコントロールしながら演奏し続ける。
(注)ただのクッションだと思っていては効果が期待できません(たぶん)
想像力を駆使してくださいね(Instagramにアップした写真はかなり不思議な絵面w)

たかがこんなことで?と思われるかもしれませんが、大真面目です。私自身が違和感を抱いてる以上、些細と思われることでも体全体は繋がっているので何かしらの影響を及ぼしています。実際私にとっては効果絶大でした!

さらに、ペダル操作のためのポジションなども改めて確認、見直すことができて一石二鳥でした。

BECHSTEIN(ベヒシュタイン)というピアノ

ピアノも他の楽器と同じく、メーカーや時代、楽器サイズなどによってかなり個性豊か。そして調律師さんの腕によって仕上がりは大きく左右されるので、信頼のおける調律師さんは楽器と同じ位、もしくはそれ以上に重要です。

今回使用した楽器は、私はほとんど弾いた事のないベヒシュタインというメーカーのものでした。じゃじゃ馬ならし的側面をもったピアノですが、使いこなすとこの楽器でなければ出せない美しい音色を持っているので根強いファンがいらっしゃいます。担当してくださった調律師さん曰く、昔は本当に扱い(演奏)が難しい楽器だったが、今はずいぶん大人しく(扱いやすく)なったそうです。

とは言っても、、相当手強かったですねぇ。

あまり弾きこまれていない若いピアノだったせいか、音(域)によって響き具合にムラがあリました。別日のリハでは響きすぎの印象があったのでペダルを減らす方向で調整していましたが、当日お客様が入ると残響がかなり減ってしまったのでまた増やし、、そのあたりの加減が難しかったです。これ自体はよくある通常作業のうちなのですが、ペダルの効き具合に独特のクセがあり、ついいつもの感覚で踏んでしまうと上手くコントロールできません。5ミリずれるだけで想像と全く違う響きになってしまうのです。繊細なペダルコントロールを要求される曲が多かったのでこの辺りもかなり気を使いました。

タッチのこと

ここまで、戸惑いしか書いてませんね(笑)
でも戸惑ったからこそ、得たものは大きいと強調したいと思います。

前述のように手強かったベヒシュタインですが、演奏中に一度だけPPPの音色が出せた瞬間がありました。
これまで他の楽器では味わった事のないもので、このベヒシュタインとさらに仲良くなれたらきっと素敵な音色と出会えるに違いない、という感覚が残りました。時間を追うごとに楽器に慣れてきたのも事実で、今回の戸惑いのいくつかは解決できるかもしれません。
ソロではなく連弾だから必要に迫られて踏み込んだ領域ともいえます。デュオリサイタルをやった甲斐がありますねぇ。

空白の7年間、それぞれに演奏活動を続けてきて、培ってきたものがあります。以前演奏した曲でも、使うタッチの種類や質が変化しているので、初めての曲のようにペダリングを一から見直さなければならず、その為の時間は必要でしたが、お互いにとって喜ばしい変化の結果です。久しぶりに合わせたからこそ、その違いがよりハッキリとわかりました。全体の音楽作りでも選択肢が増え、音色とイメージをより深い部分ですり合わせる作業が可能になりました。無限の可能性が広がるワクワク感♪

無駄なことはひとつもない

本番二週間ほど前のある日、別会場でゲネプロをしました。あまりにも不本意な出来で、久しぶりに落胆しました。しかし、ここからの立ち上がりは我ながらあっぱれ!
「悪いものは全部出たから、そこから上るだけ」と開き直り、最悪だったゲネプロをありがたいとさえ思えるように。実際気付かされたものはとても多く、本番ギリギリのところで音楽作りにもずいぶん役立ちました。あの落ち込みがなければ得られなかった成果です。

また、10年前に興味を惹かれて足を運んだ美術展がふと蘇り、自分のイメージをより立体的にしてくれたり、落胆したゲネの後も、G先生をはじめ共演者や勉強仲間のみなさまからの言葉が励みになったり(本当に感謝です)

良いことも悪いことも、ひとつひとつ確かに生きてくるのですね。

また次に向かって一歩ずつ丁寧に♪